ADHDの僕に転職がもたらした安らぎと気づき

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転職はやはり環境を大きく変える事がある

あらら。油断していると先月は一記事もアップしていませんでしたね。

近況やら体調やら色んなものが変化してちょっとへばっていました。

近況と言う事では仕事場が変わりました。

この年齢からの正社員転職は難しいので派遣社員に近い雇用で早く手を打ちました。

こんな僕でも一家の稼ぎ頭ですからね。

職場が変わるとこんなにも状況が激変するのかと思うほど、職場環境が優しくなりました。

例によってADHDのことはクローズで就職しましたが、今までの経験から失敗しやすいパターンを意識化して失敗の先回りをするような仕事手順でこなすようにしています。

前職では周囲が僕のADHDのことを知りながらもそれを真に理解するのは難しい人が多かった様で、オープンにすることが必ずしも好転に繋がるとは限らない事を痛感しました。

全ては捉え方

結局、問題は障害の有無云々ではないのですよ。個々人の考え方、人生の捉え方、幸せや生きる意味の定義のしかた等が結果として職場環境や人間関係として表出するわけです。

そもそもADHDなんて障害がメジャーになったのはここ近年のことであり、昔はおっちょこちょいやら天然ボケやらで括られていたケースも少なくなかったわけです。

そんな頃からでもそれらの特徴を愛嬌のある面白い奴だと気に入る人、努力不足の蔑まれるべき劣った人として見る人、優越感に浸ったり虐めたくなったりする人など様々な捉え方をされていました。

ADHDは障害というより個性なんだ、いや障害は障害なんだと言い合っても、そもそも個性すら苛めや差別の原因になることもあるのですからあまり意味のない論議です。

「見かけ」の持つ魔力

個性と言えば容姿の違いというのも個性であると言えますが、お化けや怪人は人とは明らかに違う容姿で描かれることにより、主人公に派手に退治されたりしても胸の痛みなどを感じないで済んでいる人が多いと思います。

醜い外見の人を蔑んだり虐めたりしてしまうのは、そんな先代の人たちから受け継がれた悪い文化のように思えます。

ところが実際は容姿と中身は必ずしも関連があるものではありません。

「エレファントマン」という実話を基にした映画を中学校の映画鑑賞会にて観ましたが、主人公のジョン・メリック(ジョゼフ・ケアリー・メリック)の健常者の身体とは随分とかけ離れた姿がリアルに再現されていました。最初に見たインパクトは強く、人々が驚くのも無理はないことでした。

ジョゼフ・ケアリー・メリック[注釈 1]Joseph Carey Merrick1862年8月5日 – 1890年4月11日)は、ヴィクトリア朝時代のイギリスで、今日では主にプロテウス症候群が原因と推測されている身体の極度な変形、膨張から「エレファント・マン」(The Elephant Man)として知られた人物。

引用:Wikipedia

しかし、作品を観終わった時に女子生徒が「最初は恐いと思ったけど、最後の方はなんとも思わなくなった。キスしてあげたくなった。」と友人と話していたのを覚えています。

「見かけ」の魔力を解くもの

女子生徒は観る前も観た後も同じ人です。

何が変わったかというと理解が変わったのです。

「見かけ」というものに対する刷り込みが、理解により書き換えられたのです。

結局、この世の大半の事は理解の足りている足りていないにより結論が下されているのです。

世の中にはジョン・メリックの様に人々から驚かれる様な容姿の人だって少なくないのです。

ゾンビ映画の崩れた容姿の凶暴なモンスターが人を襲う役を担っていても、事故や病気で容姿が崩れてしまった人たちはモンスターではありません。誰でも理解できることです。それでも、同じ人として捉えるのが難しい人が少なくないのは、人間は目に見える事にいかに弱いかということです。

容姿のことを随分と書きましたが、能力のことも同じです。

容姿よりはずっと本質的なことですがそれらをもってしても人間の価値の全てが決定されるわけではありません。決定されないというよりは分からないと言った方が正しいでしょう。

人間の価値

それは人間に価値があるとも言えるし、ないとも言う事が出来るからです。

人がこの世に生まれ出たことに意味があるのかないのか?

解答がどこにも用意されていないのですから自分にとって意味のあるものにする他はありません。人は意味のない物事にはつきあいきれないからです。

「生きる意味の答えがここにあります」と得意げに謳う宗教団体などがありますが、それすらも仮説です。それが正解と言う保証が何によって得られるというのでしょうか?

体験談?

それはまさに個人固有のものです。その当人だけの答です。この答はカンニングしても参考にしかなりません。

自分の答は自分専用の体験からしか見つかりません。

素晴らしき特権

やってみなくては分からないことだらけの世の中ですから、身体と言う名の体験できる特権を自分なりに出来る限り行使しようじゃありませんか。

僕にはその特権を最大限に使わないことがとても勿体なく思えます。

僕はADHDを始めとした障害や病気をもったことにより、そんな自分だからこそ見える世界を体験しました。

こんな自分だからと体験できないことに目を向けてくさってしまうか、こういう自分だからこそと体験できることに目を向けてその体験の専門家になるか。

とりあえずどちらでも選べるのが人生。

くさるより専門家になる方が人生楽しめるってもんです!

今の職場は以前の職場に比べて社員教育にプロフェッショナル度が高いので、むやみに声を荒げたり感情を剥きだしたりする様な人はいないので楽にはなりました。

ですが、やはりADHD特有の不注意や思い込みなどは自分の中からなくなったわけではありません。

他の同僚と同じ事をしていては仕事での失敗は起こしやすいです。

なので、会社から肩を叩かれるまでは、この経験の専門家として日々改善を試みていくつもりです。

その試みを重ねていくうちに健常者と比べても遜色ない仕事が出来るようになるかもしれませんし、もしかしたら他の道を発見するかも知れません。

いずれにしても経験というものに前向きに関わっていこう。今はそう思っています。

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