コロナの時代:災害は両面

大変長らくご無沙汰しておりました。

ブログの事は常日頃から気にはなっていたのですが、この場所から発信するには自己の体験によるデータがもっと欲しくなり、まだだまだだ(「まだまだだ」と読み間違えそう。)と思っている間にすっかり年月が経ってしまいました。

うっかり適当に暮らしているうちに、世はコロナの時代に突入し、ブログを真面目に書いていた時には考えてもいなかった方向から、世界は生活のあり方についての変革を余儀なくされています。

地震や津波などもそうですが、いわゆる災害というものは悲しみを生み出すと共に、その強大なパワー故に人々に意識転換を起こさせます。

まさに「破壊と創造」のイメージです。

まあ毎回与えられる気付きは「人間のする事なんてちっぽけなもんだな」と、自然の動きで変わる人間の行動は、人間が間違いなく自然の一部であることを如実に感じます。人間がこの世の支配者などのような勘違いなどは、さすがに21世紀の今では少なくなっているでしょうね。

でも忘れるんですよね。日常の中では。自然の一部なら、人はどうあるべきかという事を。

仮にテストでも出されたら「人間は自然の一部」と多くの人は答えれるのだろうに、日々の中に戻るとそれを何故かすっかり忘れてしまう人が少なくない。

忘れていなければ缶ジュースのポイ捨てや、プラスチックゴミによる汚染などは出来ない筈です。

今回のコロナ禍により、オフィス勤務企業の中にはテレワークというものを強制的にせざるを得ない状況に置かれたことによって、出社しなければ仕事は出来ないという思い込みが外れました。

テレワークひとつとっても通勤電車の様相が随分変わり、家族との時間が増え人間らしい暮らしが出来る事に喜ばれる人達が現れました。一方、家族への潜在的な不満が誤魔化しきれなくなり、コロナ離婚なんて言葉も生まれました。

表層的な幸福と呼ばれる状況は、卓越した化粧によって別人の様に美しくなっている顔のようなもので、その化粧した顔(表層的な幸福)に魅力を感じていた者は、災害で化粧を吹き飛ばされた素顔に初めて対面したなら、もうそこには何もない(笑)

吹き飛ばされて初めて見えてくるものに目を向けれる人、価値を見出せる人は新たな世界へ踏み込む。

願わくば目を背けるのでなく、見つめて見出そうとする自分でありたいと思う今日この頃であります。


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