客観的な息子
息子は小学一年生にしては自分の身の回りに起きる事を客観的に見ているようです。
普通なら意地悪な事を言われると落ち込んだりするのでしょうが、息子の場合は「〇〇ちゃん、こんなこと言わはんねん。なんでやろな。」とニコニコしながら報告します。
意地悪されたとしてもそのことが自分の存在価値には関係がないと分かっているかのようです。
かと言って、叱られたときまで他人事の様に聞かれると困るのですが、その場合には神妙に聞くし、時には落ち込んだ様子も見せるので今のところその心配はない様です。
息子のおかげで、出来事は単に出来事でそれ以下でもそれ以上でもなく、自分がどうとらえるかで意味が決まると言う事を今更ながら改めて思い出しました。
紙一重だった小学生時代の私
私も小学生の頃はアホな事をするのが好きだったので、周囲には笑い声がよく聞こえていました。
ですが、アホな事をする子は一部の子からは本当にバカにされることもあります。
いじめといじりの紙一重のところを生きる職人芸でございます。
と言いましょうか、いじめを「いじり」や「じゃれ合い」みたいに捉えているがためにいじめに気が付いていなかった可能性が高いです。
同級生の女の子はそんな私に「あんなことされて、なんで怒らへんの?なんでやり返さへんの?」と発破をかけてくれました。
そう言われて初めて「そうか。そういうもんなんか」と気づき、いたずらをした同級生のもとへ仕返しに行こうとしますと女の子は「そうそう。」と言います。
しかし当の本人は、「なんで怒らなあかんねんやろ」とどうも怒りの火が付かないまま仕返しに行こうとするわけですから自分で自分の行動の意味が良く分かりません。
結局私は任務を遂行する前に引き返してきてしまう始末です。もはや女の子は冷めた表情でノーコメントです。
そんないじめっこならぬ意地悪っ子とも遊ぶときは楽しく遊んでいました。
自分が思う自分が周りの認識を左右する
自分が自分に対して持つイメージは、相手にも影響を与える気がします。
もし私が皆からいじめられているいじめられっ子だと自分に対して認識を持っていたら、周りの子達もそれに無意識のうちに共鳴し、いじめているという認識を持ちだしいじめに拍車がかかったのではないかと思うわけです。
逆に本人がどこまでもいじられているだけと受け止めていれば、いじめのつもりで行おうとしていた子も「俺、こいつをいじめてるんじゃなくていじっている?みたいね。いじってるんやね。いじってるわ」となり、現実の行動も紙一重でいじりになることは結構ありえる事なのではないかと思います。病と同じでいじめも萌芽の時期に摘まないと、流れが虐め側に一度向いてしまうと修正は難しくなります。困るようないじめに遭っている人にはこんな悠長な事では対処できないのは言うまでもありません。
いじめのきっかけになるような場面を紙一重でいじり側の流れに向かせるには、ある種の鈍感さと寛容さが大切。自分の小学生時代を振り返るとそんな気がいたします。
私の父母はよく言えばおおらか。悪く言えば鈍感でしたので、私も親としておおらかな気持ちで子供に接しようと意識しています。冒頭の息子の話はもしかしたらその結果かも知れません。
客観視と共にそういう意味での主観の大切さを思い出させられた今日でした。