発達障碍者である私の目から見えるもの

今日のタイトルにはあえて「障害」ではなく馴染みの少ない「障碍」と言う字を使ってみました。「障害者」という字は、みんなの障害になる存在というイメージがあるので戦前に使われていた本来の漢字「障碍」に戻そうという人が結構いらっしゃいます。

でも、私自身は「障害者」と呼ばれる人に対して、みんなの障害になるなどといった目で見たことはなく、そんな発想もなかったです。

「障害者」という言葉の「障害」は、その本人の心身上の不具合のことだと思っていました。何かを成そうとするにあたって障害となる不具合を抱えているから障害者だと思ってきましたし、今もそう思っています。

その障害は本人にとってみれば案外普通なもので、障害という自覚も比較することから生まれてくるのでしょう。

とにかく他の人や社会の障害になるから障害者だなんて発想はかなりネガティブだと思います。

で、最近医師の診断を得て、私も「障害者」と呼ばれる側の人間になったわけですが、そういう診断を下される前からこの特性は発揮され続けて今に至るわけです。

ADHDという障害を持った私は、一般の人より劣る部分がある為に、あるからこそ人の人間性の弱い部分を引き出す事があるのです。だから、人の持つ弱い部分を見る機会が多いのです。

人の弱い部分というのは色々ありますが、ここでは「人は弱者に対しては、いい気になり、扱いがぞんざいになる事がある」と言う事について書いてみます。

いじめになる事もあります。

これは、人間と言えども動物的な本能が残っているから仕方ないです。

動物の世界は弱肉強食であると同時に、淘汰により、より強い種を残していこうとするシステムで成り立っていますから。

でも、人間には発達した理性があります。理性は実は動物にも見られますが、人間にとって発達した理性はもっとも人間らしい面ですし、他の種と比較しても最も優れていると言える特長ではないでしょうか。肉体の頑強さや腕力などで比較すれば最も優れた種とはとても言い難いのが人間です。

発達したという事はその種にとって必要性があったという事に他ならないでしょう。その種にとっての生きる方向性がそこに含まれていると言ってもいいかもしれません。

性善説や性悪説というのがありますが、私は性悪説というよりも性弱(もともとは弱い)説とでも言いたく、しかもその根底には実は自分の弱さを見つめる強い自分があるので、性強(本質は強い)説でもあるわけです。

自分の弱さに自己嫌悪に陥るのもそれを弱いとか情けないと感じるからで、そう感じるのはその対照となる様な性質の心の目が、つまり強い自分が自分の中にある証です。

そして弱い自分は強い自分になっていく事もできます。見方によれば悪が善に目覚めたとか言われる事もあるかも知れませんが、善悪というのは個々の基準で決まる相対的なモノなので、強くなったという事の方が私にはしっくりきます。

弱き事この上ない人間の赤ちゃんも、とても強い人間として成長する可能性を秘めているのですから。

「人はもともとは弱いもの」との認識があれば、結構許せる事が増えますし、ストレスも軽くなります。

会社で私が机の下のゴミ箱にコンビニ袋を入れずに鼻をかんだティッシュを捨てていると、上司から「汚いでしょ」と割と強く注意されたことがありますが、この上司は別の人が同じことをしても何も言いません。私以外の部下にはあまり強く注意出来ない様で、他の人にはよくもごもごしてしまっています。

こんなことも人は弱いものという事を思いだせると「これがこの上司の弱い面なのだな」と考える事が出来、何故だか許せるのです。

発達障害という診断がなかった時代から私のおっちょこちょいで天然ボケだけど安心させるキャラというのはずっと続いてきたので、それゆえの人間関係が形成され、こういう見方は自然と身に付いた様です。

これはひとつの恵みかも知れません。

よければこの考え方や捉え方、参考にしてみてください。

 

関連記事

コメントは利用できません。
ページ上部へ戻る