思えば母もADHD

私の母はとても優しい人でしたが、父との間での夫婦喧嘩が絶えませんでした。まあ、怒鳴っていたのは殆ど父のほうではありましたが。しかし、父も非常に優しい人でありました。

幼い頃、そんな二人が毎日のように喧嘩する姿を見るのはとても悲しく、泣きながら喧嘩を止めに入っていた記憶があります。

父は母の行動が理解できず、母は父から言われることが理解出来ない。そんな感じでした。

母は整理整頓が苦手でした。そして父は母の話の聞き方が適当に相槌を打っているだけで、いつも真剣に聞いていないと言っては怒っていました。

これってADHDによく見られるパターンなのですが、昔はADHDという概念がなかったので、父は何年言い続けても繰り返される改善のない母の行動にただただ理解に苦しみ、最初は助言だったものが苦言となりついには喧嘩となってしまったのも無理はなかったろうと思います。殆ど毎日酔っぱらって帰ってくる父は繊細な神経の持ち主でもあったので、今となってはその意味を理解できますが、子ども時代の私には不可解で、母にとっても気の滅入る事でした。

そして母の料理はインスタントが多かったです。きっと面倒くさかったのでしょう。それでも下手なりに手料理も作ってくれていました。当然ながら毎日ご飯を作ってくれました。ADHDを理解する今となっては、母にとっての暮らしは何かと辛かったろうによく頑張ってくれていたのだなと分かります。またADHDを知らなかった父も相当苦しかったのだと思います。

母はきっと要領が悪かったのでしょう。流れ作業工場の様なところで働いていた時は同僚から陰口を言われていたようです。父がその工場の前を通りがかった時にその陰口を聞いてしまい、母に「なんて言われてるか知ってるか!?」と言っていましたので。

ただミシン作業などの個人プレーの仕事が母には合っていた様でマイペースで仕事していましたし、生命保険の勧誘員ではなく集金員をやってもいましたが訪問先で可愛がってもらえることも少なくなくお茶などよくご馳走になっていた様です。重ねて書きますが父母共に優しい人ではあったのです。個人としての付き合いの中では二人とも好かれるタイプの人間でした。

しかしADHDという障害はそんな優しい人間が一緒になって暮らし始めた家庭をも暗くしてしまうパワーがあります。「人は人。そういう人だと思えばいい。」というところまで思えれば一番話が早いのですが、なかなかそこまで達観するのは難しい人が多いと思います。

現代は医学が進歩し過去には不可解だったものが、理解できるようになりました。あの時代に母がADHDという診断結果を受け、父がその事を知ったとすれば父の笑顔も増え、お酒も減り、母の辛さも軽くなり、家庭の中がもっと明るくなっていたと思います。

ADHDだからという見方も有意義ですが、完全なADHDではないグレーなADHDっぽい人も同じように理解してあげるべきです。

職場や家庭、交友関係などにおいての改善の為の努力は本人の責務ですが、助言が叱責にならないようにサポートしてあげていただきたいです。ADHDやそれっぽい人はそうでない人に比べて同じような行いでも、精神エネルギーをたくさん使っています。そこをどうか分かってあげていただければなと当事者の私からの甘えたお願いでございました。

でも、そういった観点で人を見ることが出来受容できる人が増えてくると世の中自体が今よりもきっと居心地が良い世界になると思います。ADHDの人にだけでなく、全ての人にとって。

 

関連記事

コメントは利用できません。
ページ上部へ戻る