子どもの心

息子が言いました。「のぼちん(自分をこう呼びます)な、50歳になっても心は子どものままやねん。」と。

どうしてそう思ったのか聞いてみると「だって2歳の頃から、心、全然変わってないもん。」と7歳の息子が申しました。

私は「まあなあ。2歳の頃からまだ5年しか経っていないからっていうのもあるけど、父ちゃんも心は子どもの頃と大体同じやなぁ。」「ただ、頭は変わったけどな。のぼちんも、2歳の頃は知らなかった事とか分からんかった事が、今は分かる事とかが増えたやろ?」と言いました。

そう聞かれて息子は素直に肯定しておりました。

それを聞いていた妻が「性格って変わらんやんなぁ」と一言。

私もそう思います。大人になるにつれ脳の制御力が発達し、自分の性格からくる行動や言動をも制御できるようになると、見た目は性格が変わったように見えますが、心の中の初動と言うか何かの際に最初に湧き起こってくるものは持って生まれたままだと思います。考え方やモノの見方などにも色んな角度がある事を知り、ある角度から見れば怒っていた事も、違う角度でも見れる様になると怒らずに済んだり、或いは怒りそのもに対する捉え方自体が怒らないですむものに変わる場合もあります。でもコアとなる性格は変わっていないんです。

三つ子の魂百までとは言いますが、幼子の理解力は本当に侮ってはいけません。私自身も小学生の頃に見ていた「空手バカ一代」というアニメの主題歌に「醜い利口になるよりは~♪綺麗なバカで生きてやる~♪」という歌詞があるのですが、それを聞いた時に激しく共感し、絶対に大人になっても忘れないだろうと思ったものです。

そして、今こうしてそのことを書いているわけですから、事実忘れずに生きてきたのです。思い出す事もしばしばありましたし、生き方としても忘れずにいました。

勿論、利口が醜いわけではありません。綺麗な利口は素晴らしいです。でも馬鹿でも綺麗な馬鹿は人への勇気づけや癒し、笑い、救いという点では、時に綺麗な利口にも出来ない貢献ができることもあります。

一方、生き方が醜いとなると醜い馬鹿醜い利口も似たり寄ったりです。東大や優秀なエリートが集まる政治の世界が醜くなっているのは、頭の良し悪しと心の綺麗さ加減は一致しない証明となっているのではないでしょうか?

相手の身になって考える事が出来なかったり、人の命の大切さが分からないという大バカにはしっかりとした教育や場合によればお仕置きが必要でしょう。

単純な大バカはやらかしてしまうのでお仕置きされますが、高学歴の狡猾な大バカはバレない様に動き、バレても嘘を突き通しお仕置きをまぬがれます。

綺麗な馬鹿とは色んな解釈が出来ますが、純粋な人、一途な人、損得を考えない人、出来ることと出来ないこととの偏りが大きい人(その出来ないことの面に焦点を絞られると馬鹿の烙印が押されます)などではないでしょうか?

そんなことを書く私が大好きな有名人は、ジミー大西さんです。

言いたい事、なんとなく分かっていただけますでしょうか?


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