小学一年生の息子は当然ながら、まだまだ知らない言葉がたくさんあります。
テレビアニメを見ていてもそこに出てくる単語を私に逐一聞いてきます。
子供に言葉を教えるっていうのは時に自分自身に対して意味の再確認や気づきを促してくれることもあります。
我が家のテレビにはオンデマンドを利用していますので過去に放送されていたアニメもいつでも視聴できるわけでして、最近息子は忍者漫画のNARUTO(ナルト)にハマっています。
そのアニメの中に「憎しみ」という言葉が流れ、すかさず息子は「憎しみってなに?」と聞いてきました。
私は、むむっ、これを教えると「憎しみ」という単語を扱える小学一年生が誕生してしまうのか…。まあ、しかし言葉はどこまでいっても言葉だから大丈夫だな。と、一瞬自問自答した後に次の様に答えました。
「自分がしてほしくない事をされたら嫌やろ?それがとてもひどい事やったら、泣きたいような怒りたいような、そんなことをした人にちくしょう、よくもやったなみたいな気持ちになるやろ?憎しみっていうのは、そういった気持ちがすごく強くなって、ずっとそんな気持ちを持ち続けてる人の心に生まれる気持ちの事や。」と答えました。
息子は頷き、それ以上の突っ込んだ質問は出なくなったので、とりあえずは納得したみたいです。
子どもとの問答は私がもう考えもしなくなった言葉の意味を再度考えさせてくれるので、時にはプチ哲学と言っても良い様なひと時にもなります。
マザーテレサは愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言ったらしいけれど・・・。
そうか!そうだな。きっと憎しみの反対は愛ではなく許す事なのだろうな。
母国語っていうのはそれでコミュニケーションをとり生活しているわけですので、分かりきっていると思っているものです。
でも実際こうして言葉を子どもに教えようとすると、例えば「憎しみ」という単語ひとつとっても皆が皆全く同じ答え(教え方)になることはないわけです。という事は微妙に「憎しみ」のイメージや意味も違うということで、それはどの単語や言葉にも同じことが言えるわけです。
言葉を過信すると自分の思い込みと相手の思い込みが食い違っている事に気づく事が出来ず、それが誤解を生むわけですよね。
息子の質問に答えているとそんな気付きも得ることがあります。
期間限定の貴重な問答を見逃さず、これからも真摯に答えてあげる様にしていきたいと思います。子どもの問いを面倒臭がって軽くあしらうのは、子供と親双方にとって大きな機会喪失だなと思ったのでありました。