はい!昨日の続きです。
子どもを育てたいという理由の場合も、純粋に理由なく子どもが欲しい人もいれば、世継ぎの為に欲しい人や、自分の老後の為の安心の為にという人や、昨今では少子化を食い止める為に貢献したいという人がいてもおかしくありません。
子どもというものは生き物全般に可愛いです。その可愛さはきっと無力な赤ちゃんの生命を守るために、親のかわいがるスイッチを起動させる為に自然界が与えた働きなのではないかと思います。
ただ人間だけは生む前から子どもの可愛さをイメージして期待したりもします。
「私、子どもが大好きなの」などと言う純粋派の中には自分が授かるであろう子どもに対して「子供」のイメージしか抱いていない人が多いのではないでしょうか。しかし、我が子がそのイメージに期待通り応えられるのにも旬があります。「子供」は「大人」になる為に生まれてきましたから。
目の前にプリッと出されても可愛いく感じるお尻も、やがて出されると鬱陶しく感じるお尻になるものです。
また純粋派が「大好き」な「子供」には、大好きになれない面もあります。その「子供」の個性はそういった面があってこそ成り立っているのですから。
お日様だって影を作ります。日向は嬉しがるが、日陰は許せないと言っていてはその表裏一体の日向さえ許すことが出来なくなります。同じような話ですね。
世継ぎ派は歌舞伎などの伝統芸能や天皇家などの場合はもう使命度が桁違いで、世間体というものとは異なるものです。大抵は純粋に子供が欲しい人がその使命も持っていたというのが殆どでしょう。
自分の老後の為に子供が欲しいという人はそんなにいない事を祈りますが、子どもは当てにするものじゃないですよね。と言うか当てにできません。
子どもの存在だけで恵みと感じられる人以外は、子育ては自分が親に育ててもらった恩返しというぐらいの気持ちで考えていた方がいいと思います。
あてにすると、あてが外れた時に焦ったりイライラして幸せゲージが下がるだけです。
自分の為の子育ては子供を私物化してしまいがちで、自分の思い通りにならないとなると安易に怒ります(叱りではなく怒り)。
気のせいか昨今の親は一昔前の親よりも簡単に子どもに強く怒っている気がします。私の親が気長だっただけなのかもしれませんが、昔の近所のお母さんたちは今ほど子供にあちこちで切れていなかった様に記憶しています。勿論、叱ってはいました。切れていなかったという事です。
言葉遣い自体が乱暴になってきたというのも原因の一つかもしれません。特に女の人の言葉が男性化してきているので余計にきつく聞こえるのかもしれませんね。
男女限らず、特になんでも縮めて言う風潮は、丁寧さを損なう気がしてあまり好きではありません。原因の殆どはテレビですけどね。
例えば正月に「あけましておめでとう」ではなく「あけおめ~」と来ると、相手に対しての今年もよろしくという感謝の気持ちも省略されているのではないかという気になります。
「気持ち悪い」も「キモ!」にとってかわられました。どうしても鳥の肝(きも)を連想してしまいます。
今回の記事はかなり年寄りの愚痴っぽくなってしまい、晩婚父ちゃんの面目躍如といったところでしょうか。
でも私は晩婚で良かったなと思っています。
勿論、結果論ではあります。
ダウン症などの出産前検査はしませんでしたが、高齢出産なので無事には生まれてきていなかった可能性も高いです。それも覚悟の上での出産とは言え、そうなっていればそれなりの苦労をしていたことでしょう。
若い親に比べて体力も衰えがちなので、子どもとの遊びでも息が上がり易いし、何かと病気も多くなってきました。
おまけに白髪も多くなってきました。
小学一年生の親の中では、額の皺が多いほうですし、ほうれい線も出たがってウズウズしています。
でも、もっと若くして子どもを授かっていたら、今の様な子育ては出来ていなかったと思います。
怒りではなく叱りで教えることがどこまでセルフコントロール出来ていたか分かりません。
この子どもっぽい父親は人より大人になるのに時間がかかる方ですから、このぐらいが親になるのに丁度よいタイミングだったのではないかと思います。
結婚は書いてきたように色々な動機や目的があるものですが、どの結婚の場合も共通することは幸せになれば結果オーライになるという事です。
そうなると幸せって何?という事を考えざるを得ないわけですが、これは人それぞれの価値観で分かれるものです。私が私の価値観で言っても届くものではないし意味もありません。
私が敢えて一言申すとすれば「人は一人では生きられない。」です。無人島でサバイバルした人も一人で大人になったわけではありません。ましてや有意義な人生を望むなら。
そういう人間というものが幸せになる為に本当に必要な事、大切な事は何か?
暇な時に一度プチ哲学のひと時を持ってみるのも良いかもしれませんね。