はい。そうですね。鯉のぼりがたなびく日です。
私は結婚するまでは親の社宅に同居していたので、ずっと団地住まいでした。
なので屋根より高い鯉のぼりが近くには上がっていませんでしたし、団地の子らは窓やベランダに小さい鯉のぼりを突き出しているのが精一杯でした。
屋上より低い鯉のぼり~♪と歌っていましたっけ。
今は社宅住まいではないですが、マンション生活なのでよく似たものです。
と言うことで、息子も小学一年生ともなったことですし、朝っぱらから「屋根より高い鯉のぼり説明散歩」へと出かけました。
近所には一軒家で、その屋根より高いポールに鯉のぼりを上げている家があります。
私「はい。あれな。鯉のぼりが屋根よりも高く上がってるやろ。」
息子「おお~!」
私「ほな帰ろか。」
息子「ぅえっ!?」
まあ、そりゃそうなりますわな。犬でももうちょっと散歩しないと満足しないでしょう。
ましてや今日は子どもの日です。息子もそれなりに何かを期待していたと思います。ちまきと柏餅だけがその日の全てとは思いたくなかったでしょう。
私も人の親。当たり前ですが人の親。
私「これから海の近くにある公園に行くのだ!灯台も見えるし、イルカショーもあるぞ。」
息子「やっったぁ!」
子どもの素直な表現っぷりに癒されます。
子どもだましという言葉がありますが、昔に教育学者か誰だったか「子どもだましという言葉は子どもを馬鹿にしている失礼な言葉だ」と言っていたのを覚えています。
その人は子どもはそんなに馬鹿じゃないと言いたかったのかなと思いますが、実際子どもは簡単に騙されますよ。
でも騙されることは、それイコール馬鹿ということではありません。人を疑うことをしないだけです。馬鹿なのはそういう子どもをだます側の者です。
教育学者の言葉を認めると、人を疑わない人間が馬鹿にされかねないです。
そして大人社会になるほど、そういう理屈がまかり通り、幅を利かせるようになります。
営業トークという名の嘘が疑問もなく使われ、演出という名の事実上の誇大広告により客寄せがされる。
トークや広告と実際のサービスや品物との落差にがっかりした客もやがて「ま、世の中こんなものだな。今後は気を付けよう。」と自らが馬鹿だったかのように捉え、「社会とはこんなもの」を構成する一要員となってしまうのです。
そしてだます側の自己正当化をますます助長してしまう。
まあ、これは私が営業会社に勤めた時に感じた個人的な経験からの感想ですから、全ての営業会社や広告代理店などが嘘つきなどとは言うつもりはありません。
ただ、その時に勤めていた同僚の大半は商談が成立した後にお客さまに感謝するどころか、馬鹿にして笑っている者がいたのはとても腹立たしく悲しいものでした。そんな中で正直な営業で戦うのはしんどかったですが、心がしんどくなる方がもっと嫌でした。
社会に出て一流百貨店の営業マンになった従兄も、「世の中って本当に汚い。嫌になる。親父が言っていた事が社会に出てやっとわかった」と言っていました。
短期的な目の前の見えやすい成果という事では、真っ正直な仕事っぷりの人は、その反対の事をしている人に勝つのはなかなか難しい事なのかも知れません。
自分の良心に「食べていく為だから」と言い訳をして後ろめたさを感じながら生きている人も多いのではないでしょうか。
この様な企業においては、でくのぼう扱いされている人の方が実は尊敬できる人間なのかもしれません。
こどもの日に息子が見せてくれた子どもが持つ素直な純真さ。それは大人にとっては人生航路を間違わない為の灯台のような手本とすべきものです。
それを大人になっても失くさない人が、騙されたり、馬鹿にされたりしない世の中に早くなってほしいなとチラッと願った国民の祝日でした。