私はクリスチャンではありませんが、キリスト教には「全ては神から必要な時に必要な分だけ貸し与えられている」と言った教えがあり、これは素晴らしい洞察だなと思いました。
これは決して死んだら何も持っていけないという事だけを言っているわけではありません。
当たり前のように使ったり接したりしているモノ(物・者)に対しての謙虚さを思い出させ、喪失感からくる淋しさや悲しみに癒しを与える言葉です。
私の知り合いに大切な家族を失った方がいますが、この考えにとても救われたとおっしゃっていました。家族を失った悲しみから抜け出し、それまで与えられていた幸せへの感謝に気持ちがシフトできたとのことです。
今あるモノがずっとあって当然という考えは、何かを失った時に「貸し与えられる前の自分に戻った」という事に気づきにくくさせてしまいます。
全ての物だけでなく人間関係も含めた「物事」は何一つ完全には思い通りにならないし、不変でもないです。
この身体でさえ、親から頂いたものではあるものの、親もその親から生まれてきたわけで、どんどん源流を遡って行くと、どこかにある謎の存在(今の科学ではビッグバンというのが精一杯でしょう)から発した連綿と続いて来たバトンリレーだと気づきます。
そのバトンである身体も決して思い通りになる事ばかりではないし、常に変化し、一瞬にして刻一刻と思い出に変わり、やがては無くなります。
それ即ち身体を返却するという事ですが、それまた即ち自分が手に入れていたと思っていたもの全てを手離す事であり、自分が去った後の世界に渡す時でもあります。
小学一年生の息子ですら「なんで生まれてきたん?絶対に死んでしまうのに。」と聞いてきます。宗教的な話で回答するのもありでしょうが、ここは基本的な話をしておきました。
「そやな。どうせ死んでしまうのにな。」
「でも、皆生まれて来るばっかりで死ななかったら、地球からあふれ出てしまうな。」
「父ちゃんも必ず死んでしまう。でもどうせ死んでしまうからと言って、父ちゃんが生まれてきていなかったら、ノボ(息子の呼び名)も生まれてこれてなかったな。」
「それどころか、父ちゃんの親やご先祖さんが皆どうせ死ぬからと言って生まれてなかったら、何にも始まってなかったな。」
「人間は他の動物と違って、命を繋げていくだけやなくて、考え方とか色んなものを受け渡していけるんや。」
「そして、受け渡すだけやなくて、分からなかったものが分かる様になったりもする。」
「ノボは地球が丸いって教えてもらって知ってるけど、それはものすごく長い時間をかけて皆で生まれ続けて考え続けてきたから分かった事なんや。」
「大昔は、この世界を球などと考えれる人はいなくて、平べったい世界でその先には海が滝のように落ちてたりしてるんじゃないかとか、悪魔がいるんじゃないかとか色んな事を考えてたんやで。」
「そうやって色んな事が分かる様になると、色んな事が出来るようにもなって、世の中をどんどん良くしていくことが出来るんや。」
「でも良くなることもあるけど、残念なことに悪くなることも多い。」
「だからこそ良くなるように頑張るのが、それが人間の本来の腕の見せ所なんや。」
「そうやって良くなるように頑張って気持ちよく生きた人は、気持ちよく死ねる日がくるんや。」
「死ぬっていうのは、自分の身体を返す日や。」
「返すということは、借りてた者がおるっちゅうことやな。」
「それが元のノボや。」
「気持ちよく生きて、気持ちよく身体を返したら、気持ちいい元のノボになれるで。」
小学一年生を相手に死んだら何も残らないなどと言うのは酷なので、魂の存在を感じさせる終わり方にしました。
それに何も残らないという確証も逆に無いのですから。
意義深い良い生き方が出来る為なら、死後の事に関してはどういう考え方でもいいと思います。
そして全てを借りているという考えは我々にとって事実上はそうであるわけですから、全てのモノをそういった目でとらえ直してみるのも意義があるのではないでしょうか。