仕事のできない人間=ダメな人間ということではない!

仕事のミスは自己否定の引き金

ADHDの人に限らず職場で力を上手く発揮できない人は、自信喪失から自己否定に陥ったりしたことがあるのではないでしょうか?

私自身も注意欠陥の障害を抱えているので、職場で辛い思いをすることはあります。特に今の仕事に変わってからはケアレスミスなどで叱られる事が多く、それ故に色眼鏡(レッテル)で見られてしまい、仕事の中で私の見解や発言の方が正しい時でさえも軽んじられてしまうことが多々あります。

まあ、先入観というものは誰もが持ちやすいものですからそれは仕方ないかなと思っています。

以前の日記でも書きましたが問題なのは仕事の中で軽んじられたからと言って、自分が人として軽んじられたと感じ、自分で自分の存在価値に自信をなくしていくことです。

ADHDなど発達障害のある人が薬物や行動療法などにより、改善に努めても必ずしも望むレベルの結果につながらず職場でのパフォーマンスを上手く発揮できるようになるとは限りません。

しかしそれは人間としての価値とは全く関係がないことです。

仕事の出来る出来ないは自分の一面に過ぎない

職場での評価というのはその狭い狭いテーブルの中での存在価値を問われているだけです。

例えば私自身の職業遍歴を振り返っただけでも、美容師時代はどんくささから先輩に叱られることが多いながらも私の天然ボケと素直さ(自分で言っちゃうわ♡)は先輩スタッフにも受けが良く可愛がってもらえましたし、お客様にもありがたいことに私のファンが生まれました。

福祉職時代もおっちょこちょいな天然ボケキャラは変わりなく発揮され、鈍くさいことで先輩に叱られる事も日常的にありましたが、福祉施設を利用されているお年寄りにはとてもかわいがってもらえ、何かあるとご指名で呼ばれる事も多かったですし、私の介在によってお年寄りの方に笑顔が生まれることに大きなやりがいを感じ、給料以上の働きをすることを自身の目標として日々働いていました。

電話営業職時代は当初まったく自信がありませんでしたが、意外にも営業の中で私の中のユーモアセンスが活かされて、上司に一目置かれる程の営業成績を残し、正攻法で一件もクレームの無い良い営業が出来ました。

NPO職員時代はスタッフ達とは仲良く出来ていましたが、上司達からはあからさまないじめを受けました。そして、自分自身に決めた「何があっても一年間は頑張りぬく(みじか!)」という誓い通り一年間で辞めました。でも、一緒に勤めていたスタッフ達はその上司の人間性がおかしいと一様に言ってくれて、私の退職後には殆どの同僚が退職し今も交流が続いています。環境問題や心の問題を解決する為の活動をしている有名なNPOでしたが、内側から貴重な光景を見ることが出来ました。

その後再び福祉職に復帰しましたが、鈍くささとサービス精神の同居する私はいつものことながら当初は叱られる事が多かったです。

その一方、サービスを利用されているお年寄りの方々には評判は悪くなく、センター長の補佐役を経て気が付けばセンター長となり、私がセンター長になってからは不器用な営業活動ながらも、むしろそれがケアマネージャー達に気に入られる場合もあり積極的に私に新規利用の方を紹介していただけ営業利益がV字回復してしまいました。

そして今の仕事です。この事務職は適性が発揮できる場面よりも、ADHDの短所が発揮(発揮と言うのか?)されてしまう事の方が多く、ストレスたっぷりで逆流性食道炎を発症してしまったというわけです。

長々とマイストーリーを書いてしまいましたが、仕事という枠だけで考えてもその評価というのはごくごく一面に過ぎないということがお分かりかと思います。仕事場が変われば評価は変わります。

ましてや人生や人間としての評価として考えれば「仕事という枠」は限られたごく一面です。今の仕事場での評価は無数にある仕事の中の絞られた狭い狭いテーブルの上での話です。

仮に上記のマイストーリーを今の仕事場の上司に伝えたらきっと驚かれると思います。上司から見た今の私とデイサービスのセンター長をこなしていた私とはつながらないことでしょう。

仕事ってなんだろう

仕事の出来る出来ないを生きる価値につなげてしまいがちなのは、お金を稼ぐことができないと生きていけないという事実があるからです。

ミスなく仕事をこなせれず周囲に迷惑をかけてしまう自分=自分なんていない方が会社は助かる(存在意義が薄い)=自分には生きている価値が無い ←と、なってしまいがち。

しかし、仕事とはなんでしょうか?

お金の為に仕事をしている人ならその大半が、もし宝くじで億万長者になれば今の仕事を辞めたいと思うのではないでしょうか?

その程度のモノに人の価値が測られ決められるのでしょうか?

YESという人は人の価値の計りを経済力だけで見る視野の狭い人です。

仕事をすることを「働く」とも言います。働きと言えるものはお金を稼ぐことだけでしょうか?

もしそうだとしたら、経済的にはいつリタイアしても良いほどの成功者が働き続ける理由は果てしなき金銭欲故ということになりましょう。

でも実際はいわゆる成功者が働き続けるのは、世に影響を与え、人の役に立ち、人生に退屈したくもないからです。

であるならば何か貢献することは勿論、この世に何かしらの影響を与える事は全て働きであると言えないでしょうか。

貢献できることはお金儲けだけではない

この世で貢献することがお金を稼ぐことだけだとしたら、それでこの世の中は成り立ちますでしょうか?

あなたは何者にも全く影響を与えずに生きる事が出来ますか?

あなたは生きているだけですらどこかに影響を与えています。

あなたの着ている服はあなたがいたから購入され、そのお店は利益を得ました。そのお店があるからその服を作った人も収入を得る事が出来ています。

あなたが食べた物も同じです。あなたが食べてくれた事に影響を受けている多くの人がそこに繋がっています。

ある人はあなたの持つ雰囲気にホッと安らぎを感じているかもしれません。

以前の記事にも書きましたがADHDの人にはユーモアや人をホッとさせる面がある人が少なくないようです。

私の職場では年に一回、会社がスタッフに感謝の意を表しお菓子が配られる日があり、それに上司がメッセージカードを添えて渡すのですが私のカードには「これからも職場の潤滑油としてよろしくお願いします」との言葉がありました。まあ、「頼りにしてます」などと書いてもらえないところが私らしさですが、潤滑油も業務の何かしらの役にはたっているかと思います。

また、私は今の職場では誰よりもミスをします(決して開き直ってはいません。日々努力しています。)が、それが隣の気弱な女の子の救いにもなっている様です。

人のいじめの本能は最も弱い者(立場上や性格上)に向けられやすいです。理性的な人でも無意識のうちにその本能につい影響されてしまうことがあります。

その女の子は「この職場においての最も弱い者」からは事実上免れる事が出来ているのです。

だからでしょうか。その女の子はこの職場で私のミスに対して誰よりも優しく対応してくれます。

ちょっと後向きの話で例をあげてしまいましたが、人の存在価値というものは仕事の評価でなくなるようなちっぽけなものではないという事を伝えたかったのですが分かっていただけましたでしょうか?

あなたは職場を離れたら価値がなくなりますか?

むしろ職場(経済)を離れたら価値がなくなると思っている人の方が問題です。そういう人が「金の切れ目が縁の切れ目」「愛よりお金」という言葉に心から頷くのでしょう。そのような人生観には淋しさや虚しさがついて回るでしょう。だからそういう人たちはますます人の価値を経済力中心に計り、淋しさや虚しさを経済でもたらせられるあらゆるもので誤魔化し続けるしかなくなるのです。

言っておきますが、私もお金は好きですよ。お金で得ることが出来ないもの(買えないもの)がある事を忘れていないだけです。

人よりも深く考えすぎてしまう癖がある人は、スピード至上の職場では鈍くさい木偶の坊(でくのぼう)扱いをされがちですが、人が見過ごしてしまうような事に気づくことがあります。それは対人関係においても同じで、見過ごされ易い気持ちを読み取る事が出来たり、思いやりの深さとして現れる事もあります。

本当に書いているとキリがありません。

キリがないほど人間の価値というものは広い広いものということです。

仕事の出来る出来ないの評価だけではとても計り知ることができないほどに。

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