相変わらず客観的な息子
以前の記事にも書きましたが息子は自分の身に起こる事を客観的と言うかノープロブレムというかちょっと独特な捉え方をします。いじめられていると捉えてしまいかねない様なことでも遊んでもらっている(最近の言葉で言えば「いじってもらっている」)と捉えています。
今日は息子が学童保育で友達のR君から急に「かけてやる!」と言われてズボンに大量のお茶をかけられたらしいのですが、息子のその報告の仕方にはまったく悲しげな雰囲気や悔しい様子がなく「のぼちん(自分の事を親にはこう言います)よりもR君の方が100倍ダメージが大きかってん」と笑うのです。
どういう事かと息子に聞いてみました。
息子が言うには、お茶をかけられたのを見た他の友達が「先生に言いに行った方がいいよ」と言ったので息子は職員室に向かおうとしたところ、それを見て慌てたR君は「ごめん!ごめん!」と謝りだしたので息子自身は「もういいか」と思ったとのこと。
ところがタイミングよくそこへ先生が通りかかり他の友達が先生に一部始終を報告したのです。そのことについて息子は私に「R君、運勢悪いやろ」と笑いながら話すのです。
R君は先生から「ごめんで済まへんで!」と強く叱られたのは言うまでもありません。
息子は「のぼちんのズボンはすぐ乾いたけど、R君のお茶は殆どなくなってしもうてん。」と笑いながら言います。R君は先生に叱られるわ、お茶はなくなるわ。だから息子はR君のダメージは自分の100倍と言ったわけです。
確かにズボンにかかったお茶は乾けば息子にとって何も実害は残らない。一方、無くなったお茶は実際に損失として残るわけで、息子には自分の受け取め方ひとつでどうとでもなることよりも、結果として具体的に残る出来事の方が重要なのでしょう。案外、現実主義なのかも知れませんね。
我が家の型はやわらかめ
以前に何かの番組で日本人は外国人に比べて傘を持って出る人がとても多いというのを見たことがあります。外国人は番組内のインタビューで「傘は持ち歩かない。雨が降ったら濡れても問題ない。何故なら雨が上がれば、服はそのうち乾くから。」と言っていたのを見て国民性の違いを感じたのを覚えています。息子の今日の話を聞いていてこの傘のインタビューを思い出しました。
私は子育てに置いて極力型にはめる様な事はしないようにと意識してきました。
とは言え徹底している型もあります。
それは、朝と夜の「おはよう」「おやすみ」。食前食後の「いただきます」「ごちそうさま」。出掛けと帰りの「いってきます」「ただいま」。見送りと出迎えの「いってらっしゃい」「おかえり」。言うべき時の「ありがとう」「ごめん」。これらは家族みんなが毎日忘れることがないです。
これがうまく出来ていれば自然な愛情確認にもなると思います。子ども自身にとっては日々親の愛情を確認が出来るのは安心の基盤となりますし、無意識のうちにポジティブ性を育て人間の善なる面を信頼する力(許す度量とでも言えましょうか)やユーモアセンスまでをもをつける為にも大事な事だと思います。
息子はまだ小学1年生なのでまだまだ本格的反抗期も迎えておりませんのでこの先はどうなるかは分かりません。なので我が家式子育てが成功スタイルなどと言うつもりは毛頭ないのですが、ともあれ今の段階では息子には「こうあらねばならない」という呪縛がまだあまりできあがっていないのだろうなと思いました。
そしてそんな息子の言動から私たち父ちゃん母ちゃんは自らの呪縛に気づかされることが時にあるわけなのです。